劇場版アロマ検定1級とカップ麺と生乾きの洗濯物
最寄り駅から徒歩8分、敷金礼金なし1ヶ月2万円。
アリのやたら湧い出る6畳半にはいつとはなしに集まってきた宝物の山と、
いつもどおり1人の私が収容されている。
白い粒をちいこい頭に乗せ6畳半を縦断するアリを大股でまたぎ、
宝物の山から私は目当てのものを取り出そうとする。
グチャと紙のひしゃげる音は積んであった野草辞典が倒れて水道料金の紙を
押し潰したからだと脳の隅っこで想像しつつ、そちらには目もくれないで
コンセントの付いた白い円柱を手繰り寄せる。
登山でもできそうなほど大きい緑のリュックを背負った友人と
電車に揺られている時のこと。「次は、神立です」という
アナウンスに次いでギュルゥという音が車内に響いた。
羞恥心の湧く前に「朝から何も食べてない」と情けない声を漏らすと、
彼女は緑のリュックから黄金色のドーナツを取り出す。
「お母さんが揚げたんだけど。食べきれなくて。」
天の恵みだ!と私は大喜びでかぶりついた。
じゅわっと柔らかい甘みと、さっくりした衣が舌に心地いい。
ドーナツなんてどこにでも売っているけど、これは違う。
何が違うと言われると答えられないが、これは本物のドーナツで、
コンビニなんかにあるドーナツの形をしているだけのパサついた粉物とは
明らかに一線を画している。
ひとことで言うならめっちゃうめぇ。
ポロポロとカスが膝に落ちるが電車を降りるときに外で払えば良いよねと
気にせず食らい続け、彼女に問う。
「さぞ良い粉で揚げてるんでしょうね、これは。」
それに対し、彼女は「お母さん、”自然派”だからさ」と答えた。
無農薬、無添加、天然由来。
毒々しい化学物質を避け、自然からの恩恵を大切にした生活を心がける
彼女の母親は、普段から無添加の化粧品を自作しており、休日には
石鹸作りのワークショップも開催しているらしい。
「石鹸には精油をオイルで希釈したものを混ぜてね、精油って言うのは
アロマオイルの事で。お母さん、アロマテラピストなのね。」
食べ終わる頃にはスマホの検索履歴がアロマテラピーで埋め尽くされていた。
なるほど普段から自然の香りを取り入れるぐらいに丁寧な生活を
していたらこんなドーナツも揚がるだろう。
ドーナツだけではない。その娘である彼女からも感じる
形容しがたい小綺麗さ。きっと私の想像の至らない繊細な暮らしぶりだろう。
そう感じるや否や、自分もラベンダーがカモミールでジュニパー・ベリーな
生活を、いや人生を送りたい、送ってみせると決心した。
こうしてその日のうちに私は本屋で
「1回で受かる!アロマテラピー検定1級2級」を購入し、
ナチュラルでオーガニックなお勉強に取り掛かったのである。
今回宝物の山から白い円柱こと、アロマポットを引っ張り出したのは
我が下宿を格安物件たらしめる、日当たりの悪さが原因だ。
晴れていようが雪が降ろうが日食だろうが等しく薄暗いこの6畳半では
洗濯物がパリッと乾くこともほぼ無く、
どうにもツンと生臭い部屋干しの匂いから逃れることができない。
そこでアロマを焚き、部屋中の匂いをバラ咲き乱れる植物園のごとく
調香したら洗濯物までいい香りのまま渇きやしないか…という試みである。
ダマスクローズの精油を3滴。コンセントを挿し、
ポッドの側面にあるスイッチをオンに。
しかし、ピピピピピピピッという聞き覚えのない電子音の後に
ポッドの電源は勝手に切れてしまった。何度繰り返しても同じ電子音
を聞かされるのみで、いつになっても部屋がフローラルな香りに包まれることは
なかった。
3年も触れずに埋れていたのだから仕方がないことなのだろうが、
納得できない私はなんとか修理ができないかと
ドライバーを取りにキッチンへ向かう。
しかし急に立ち上がったせいか激しいめまいに襲われ、そこでふと、
「朝から何も食べていない」と思い出す。
バランスを崩しドテンと倒れこむと、目の前の床にはアリの溜まり場。
ようだった。
「お母さん、虫が大嫌いで家の周りに殺虫剤撒いてるの。私も虫が嫌いでさ。」
その瞬間何故か、あの友人の言葉が脳裏に浮かんできた。
いそいそと頭に乗せては運び、乗せては運びを繰り返すアリの軍団を目にし、
このアリの運ぶ白い粒がカップ麺の調味料ではなく、ドーナツの粉砂糖だったら
まだ少しは格好がついたのになと苦笑しつつ、
画鋲で壁に高く掲げたアロマテラピー検定1級合格証書の下で、
思わず呟いてしまったのである。
「自然派って、なに?」