満20歳程度の知識と救いについての自分語り
うちの家族は3人と1ぴき、父と母と私と猫のよくある核家族。
他の家庭と少しだけ違うところがあるとすれば、家族のうち3人がうつ病にかかった経験があるところだ。
残りの1ぴきに関しては浅学なもので猫様のお言葉がわからず、はたして毎日のキャットフードに満足しているのか、人間の知らぬところで深い心の傷を負っているのか、全く想像もつかないのだが
庭のバッタを捕まえた時の爛々と輝く目、軽やかなステップを見るに、
少なくともうつ病ではないだろうと思ってしまう。
私がものごころついた頃から母は「産まれなければ良かった」と涙をこぼしていた。
「苦しい」「死んだ方が良い」「消えたい」・・・
どうしてそんなに自分自身に苛められてるのか、当時幼稚園生の私は心配よりも疑問が大きかったのだが、その数年後には普段饒舌な父が一言も話さなくなり、その頃小学校3年の私はこれまた人間って言うのは突然性格が変わっちゃうものなのかと名状しがたい孤独感を覚え、そのまた数年後、17歳になった私は父母に見られた不思議な心の動きとその理由を、身をもって知ることになった。
私に立ち現れた症状はステレオタイプ的なうつ病そのものを想像してもらえれば大方その通りだったが、ただでさえ苦労をしている父母にこれ以上の不安を与えるのは絶対に避けるべきで、家族の前で私はバリバリの健常者を演じていた。よって病院へも行けず、うつ病というのも実は自己診断の結果でしかない。
いざ当事者になると、どうして道を歩くだけでこんなにも胸がどきどきするのか、どうして朝が来るだけで涙が出るのか、鉛筆を持つだけで指が動かなくなるのか、
分からない事自体が不安材料だったから、知ることで強くなろう、分かることで身を守ろうと、心に関する事を中心にあらゆる知識を求めた。
インターネットで調べるうちに何度も辿り着いてしまうのは
「うつ病になりやすい人の特徴8つ」「投薬無しでうつ病の対処」等の
分かりやすく圧縮された記事で、それらはなんだか健常者が精神病をアクセサリーのように扱い、たしなむような感じを受け、そんな仮設住宅のような知識よりもいつかどこかで目にした
「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」という、水戸光國の名言の方がよっぽど優しい光に思えた。
しかし知識だけでは自身を守りきれないときがある。死のうと思った。たくさんの知識は死の抑止力になるかもしれないが、生きる原動力にはなり得ない。それを薄々と感じ、知識を付けることにも疲れてきたとき、8:34に石岡駅を通過する特急列車に飛び込もうという算段を立てた。
予定日前日の晩に、計画的な自殺に当たって部屋に死後残して恥ずかしいものはないかと押し入れだの引出しだのをごそごそとやっていると1つのカートリッジを見つけた。
ゲームボーイアドバンスソフト「ドクターマリオ」だった。私のものではない。
いつか昔に遊びに来た誰かが忘れていったものと推察した。
ドクターマリオとは、医者の格好をしたマリオがビーカーに色のついた錠剤を投げ込みプレイヤーが色を揃えて菌を倒す、というシンプルながらもやりこみ要素のあるパズルゲームで、bgmの監修に「目指せポケモンマスター」の作曲者が関わっており、古くなっても飽きを感じさせない所謂「神ゲー」とファンの間ではよばれていたもの。
私も何度かそのbgmを耳にしたことがあった。テトテトテテテテ……♪………と、8ビットのコロコロした音が脳内で勝手に再生された。しかしその先がどうにも思い出せない。忘れようとしても脳はbgmの同じ部分を何度もリピートし続け、「脳内で音楽が流れ続けるそれはイヤーワーム現象と言う。一定時間が経てば必ず収まる一過性のもの」という知識なんて微塵の役にもたたず、皮膚の下で虫が動くようなむず痒さに耐え兼ね、数分もしないうちにドクターマリオをゲームボーイアドバンス本体に差し込み、電源を入れた。
結局テトテトテテテテ……♪の先はテテテトテ……♪だったのだが、ああやっと思い出せたという安堵感は感じなかった。
没頭してしまったのだ。死にたいくせに、ドクターマリオに。
一体何時にゲームボーイアドバンスの電源を入れたかは覚えていないのだが、ふと我に帰ったのは鳥の鳴き声がうるさかったからで、時計は翌朝の4:02を表示していた。
本当にびっくりした。あと4時間ちょっとで死ななきゃいけないのに、ドクターマリオのLv20ハイスピードがクリアできていない。その瞬間私は眠気と疲れと馬鹿馬鹿しさで布団に突っ伏した。眠りにつくまでの数秒間、頭に浮かんでいたのは、
「神様はその人に必要なものを知っていて、必ずそれを与えてくれる」というマザー・テレサの言葉だった。
結論からして20歳の私は今ここに生きていて、7:40の目覚ましはドクターマリオのbgm。
一方で20年以上投薬治療を施されても一向に快方へ向かわなかった母の病状は「ウルフルズ」のライブへ行くことにより回復の色を見せ始め、父はYouTubeでパチンコ必勝動画をニヤニヤと見ながら楽しそうに誰かと電話をしていて、猫様は変わらずバッタをいたぶっている。
全ては単なる出来事で、1つの物語としての山も落ちも教訓も、何ひとつ面白味をもって語れることは無いのだが、敢えて綺麗にまとめようとするならば、マザー・テレサの言うところの「神様」はもしかしたら存在するかもしれない、と言うことと、救いとは知識や薬などの事実ではなく、たった1つの体験であること。
自己否定的な母にはコメディタッチのバンドライブを、労働の苦しみにあえぐ父には一攫千金の夢を、思考が止まらない私にはパズルゲームを、猫様には…バッタを?
全ては単なる出来事とは言ったものの、ここまで長々と書いてしまったのは、明日もあのbgmで目を覚まし、きっとずっと生きていく自分自身と周りの世界についての小さな抗争を、本当はちょっとだけ、誰かに聞いてもらいたかっただけなのだ。
2019.1.14 成人だぜ 長生きします